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映画のレビュー&考察

「アベンジャーズ・アッセンブル」は、何故キャプテン・アメリカでなければならなかったのか?また映画におけるヒーローと「大義」との関係性はどのようなものなのか?

 

1.「アベンジャーズ・アッセンブル」は、何故キャプテン・アメリカでなければならなかったのか、その理由とは?

アベンジャーズ・アッセンブル」とは、アベンジャーズにおいて、そのリーダーが出撃を指示する際の掛け声のことを言う。

「アベンジャーズ/エンドゲーム」においては、最後のサノスとの決戦において、キャプテン・アメリカがその掛け声をかける。

そしてその声をかけるのは何故キャプテン・アメリカでなければいけなかったのか?

これがアイアンマンでは違和感がある。

何故なのか?

それは持って生まれた2人のキャラクターの違いに起因する。

スティーブ・ロジャースには「大義」があるが、トニー・スタークには「大義」がありそうに見えても、実際は少し違うものだからだ。

ティーブはとにかく国を救う「大義」や地球を救う使命感に満ち溢れている。

一方トニーの行動原理は、それとは異なるものだ。

2.トニー・スタークとスティーブ・ロジャースのキャラクターの違い

トニー・スタークはスターク社の2代目社長。

経営者であり、いわばセールスマン。

スターク社の製品がいかに優れているか。

それを世間にアピールする。

そうでなくては会社としての経営が成り立っていかない。

そうやって、生まれついての宿命を背負わされた人物であると言えるだろう。

トニーのプレゼンテーションは上手く、多くの人々の心を惹きつけるものだった。

そうやって会社を先代の頃より更に発展させてきた。

その試みは成功した。

しかしその心の奥で、自身の衝動や情熱に従いたいと願う気持ちを隠してきた。

そうでなければ、経営者としての自分は務まらない。

そう考えていた。

レポーターに突っ込まれると、彼独特のフィロソフィーで持って言い返した。

それは生まれついてのセレブならではの優雅な切り返しに見えた。

しかしトニーの内面では違っていた。

心のなかにくすぶるものがあった。

またそれをペッパー・ポッツは見抜いていた。

だからこそトニーはペッパーを信じ、自分の妻とした。

やがてその衝動は「アイアンマン」の発明として表に噴き出された。

こう考えると同じヒーローであっても、トニーは個人主義

内なる衝動や情熱に従っているだけ。

それは大義などではない。

3.現代はもはや「大義」の通用しない時代

現代に生きる我々にはもう大義などない。

昔は国のため、または組織のためといった「大義名分」があった。

その時代には有効であったかも知れないものは、もう今の時代においては通用しない。

アベンジャーズのメンバーとしてついてくるほとんどのメンバーにも、そのような「大義」というものは存在しない。

熱くなれるもの、自分が夢中になれるものを探し求めているだけだ。

何かのための「大義」といったものはない。

その意味において「アベンジャーズ・アッセンブル」の言葉を発するのは、キャプテン・アメリカでなければならなかった。

4.スティーブ・ロジャースの信念と理念について

ティーブはもともと病弱で身体が弱く、徴兵検査も必ず不合格だった。

ケンカを挑まれてもことごとく負けていた。

もともとヒーローにはほど遠いキャラクターだったわけだ。

しかし国を愛し、国のために働きたいという気持ちは人一倍あった。

そしてその気持を持ち続けた。

ある時超人に生まれ変わることができ、それからはその信念を全うした。

国のために、という気持ちは現代に生まれ変わってからは地球のため、全宇宙のためという気持ちに変わっていった。

その頃には国境という概念は以前よりあまり意味を持たなくなっていったからだ。

ティーブの理念の対象は時代とともに変化して入ったが、その根本とするところはいつも一緒だった。

自分のために生きるというよりは世の中のため、人のため、常に「大義」のために己を犠牲にしてきた。

自分を曲げるということはせず、常にまっすぐな生き方を貫いた。

「アベンジャーズ/エンドゲーム」のラスト近くで、ストーンを返しに過去へタイムスリップするところまでは。

そこから先は任務を果たすというより、今度は自分の人生を生きる気になったのだろう。

それが自分の心に素直になることで、自分が心から求めていることだと気づいたからだろう。

そして「アベンジャーズ/エンドゲーム」のラストシーンでは、サム・ウィルソンに自分の盾を差し出す。

これからはその「大義」はサムが受け継ぐべきだと思ったからだ。

5.「大義」は、今後より不明瞭になる

このように「アッセンブル」とは世の中全体の「大義」のことであり、これからの時代はそれがより不明瞭になる。

1つは個人主義の問題。

1つはテクノロジーの発展により「大義」の所在が見えづらくなること。

昔は国境というものが、重症な役割を果たしていたし、部落同士、部族同士のような争いもあった。

そして各々の存続をかけて戦った歴史というものがあった。

それが今後いっそう見えづらくなっていくだろう。

そういった物語が今後は紡がれていくかもしれない。

だがこの場面においては違う。

やはりキャプテン・アメリカこそが、「大義」としての「アッセンブル」を発しなければならない。

だからこそ、この最終決戦の始まりを告げるスティーブの一言は、人々の心を打ったのだろう。

アメリカとはだいぶ文化が異なるはずの日本においてもそれは同様で、「アベンジャーズ・アッセンブル」は大きな反響を呼んでいる。

まさに国境を超えた支持で、それは日本だけでなく、それ以外の英語圏外の国々の人々においても同様だろう。

その高い支持を得るためには、やはり「アベンジャーズ・アッセンブル」はキャプテン・アメリカから発せられる言葉でなければならなかった。

でなければあれほどの説得力は得られないからだ。

6.今後はおそらく新たなヒーロー像、カリスマが待望される

未来の世の中における物語のヒーロー像は、おそらくこれとはもっと違ってくるだろう。

もっとゲーム性や、ギミック、トリックに溢れたストーリー展開が増えていくだろう。

「スパイダーマン: ファー・フロム・ホーム」ではピーター・パーカーがもちろんヒーローだが、作品全体を取り囲んでいるギミック、トリックはすごいことになっている(2重、3重に張り巡らされている感じ)し、今後はそういった映画がおそらく当たり前のようになってくるだろう。

制作側もいかに観客をトリッキーに楽しませるかが、エンターテイメントの次の柱になるだろう。

核となるヒーローの存在ももちろん大事だが、モノクロ映画全盛の頃とはもうわけが違う。

古き良き時代の映画にももちろんトリッキーな映画はあったが、今後はそれが更に複雑化してくる兆候があちこちに見えている。

キャプテン・アメリカのように一本気なヒーローは少なくなってくるかもしれないが、逆に人々の心のなかではキャプテン・アメリカのようなヒーローを求める気持ちもくすぶっていて、また何処かで爆発的な人気を持つヒーローが誕生しそうな気もする。

ボヘミアン・ラプソディ」があれだけ成功したことから考えても、新たなカリスマ(または再発掘)を待望する人々の気持ちは、これからも、またいつの時代に追いても変わらないだろう。

今回の記事はこれで終わりです。

最後まで読んで頂いてどうもありがとうございました。