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映画のレビュー&考察

映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」でデシメーションを生き残ったアベンジャーズ達の過去への対峙について

 

 1.映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」でデシメーションを生き残ったアベンジャーズ達の過去への対峙について

映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」を紐解く重要なキーワードの1つは「過去との対峙」ではないでしょうか。

一見派手なSFアクション映画であるように見えても、その中盤のシーンのほとんどはデシメーションを生き残ったアベンジャーズ達の過去への対峙で占められています。

つまり生き残ったものが己の過去と向き合う...

その中には良い思い出も、苦い思い出もある...

そういったものに向き合う、ということがまさにこの映画の中でも特に重要なエッセンスとなっており、いわゆる単なる娯楽的なアクション、サスペンス映画とは一線を画すものです。

そういった人間模様がこの映画の核の部分となっており、作品をたまらなく魅力的に魅せる重要な要素となっています。

最初は過去作の懐かしいシーンに立ち戻る嬉しさがこみ上げてくるかもしれません。

しかししばらく見ているうち、アベンジャーズ達の心のうちには、決して嬉しい気持ちや喜びばかりが溢れているのではないことに気づきます。

そこに心を打たれるからこそ、この映画はまさに傑作たり得ているのでしょう。

それでは順を追ってその例を紹介していきましょう。

2.デシメーションを生き残った者:クリント・バートン (ホークアイ

アベンジャーズ達が「タイム泥棒」作戦を企てて、過去へのテスト飛行の実験者にアントマンが選ばれますが、アントマンは、

「駄目だ、怖い。」

と怖気づきます。

そこでクリントが、

「俺がやる。」

と言ってアントマンの代わりを買って出ます。

家族を失ってから、悪の道を進み、多くの人殺しをしてきた自分にはもう失うものはない。

もし実験の犠牲になるとしたら、自分こそがふさわしいと思っていたのでしょう。

しかし実際に過去に戻ると、クリントの心は懐かしい家族との記憶に呼び戻されます。

もう決別したと思っていた過去に。

つまり人間の心の中は常に過去と繋がっており、それらは現在と等しく心のなかに存在するということです。

もう本人がすっかり忘れたつもりになっていたとしても、それは同様です。

「過去に旅をしたら、それが君の未来になる。」

「そして現在は君の過去になる。」

「変わることはないんだ。」

タイムスリップの概念は、私達にいろんなことを考えさせますが、今現在の社会に生きる私達は過去を振り返るということをだんだんしなくなってきている気がします。

しかし歴史は繰り返すの言葉通りに、科学や技術は進歩しても人間の本質は変わらない。

私達の生活は過去とも繋がり合っている。

普段私達はそのことを忘れています。

クリントのエピソードはそのことを一番わかりやすく説明してくれています。

クリントは我が家に帰り、そこでかつて子どもたちと遊んだボールやグローブを見つけ、それらを手に取ります。

そして家の中を見ると、娘の姿が目に入ります。

娘の名前を呼ぶと、そこでテスト飛行は終わり、クリントは現在に引き戻されます。

娘のライラは、

「何、パパ?」

と答えますが、パパの返事はありません。

おそらく空耳か何かと思ったのでしょう。

「タイム泥棒」の実験は成功し、次は実際のインフィニティ・ストーン奪取に取り組むことになりますが、クリントとナターシャがソウル・ストーンをてに入れるにはどちらか一方が犠牲にならなければならないことを知り、やはり先ほどの実験の時と同様に自分が犠牲になろうとします。

実際にはクリントでなくナターシャがその犠牲になるのですが...

映画の最後には懐かしい家族たちとの再会があり、そこで全ての物語は繋がります。

彼は本当に大事なものは何だったのか、そこに気づくことになるのです。

人が生き続ける意味というものはまさにそこにあるのでしょう。

3.デシメーションを生き残った者:ソー

ソーが飛んだ世界はアスガルドで、まさに自分の母フリッガの亡くなる日(「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」)でした。

「今日亡くなる。」

「とても耐えられない。」

「来るんじゃなかった。」

物陰に隠れているソーをフリッガが見つけ、こう言います。

「私の知るソーではない。」

「未来は優しくなかった?」

「私は魔女に育てられた。」

「見えないものも見える。」

「誰もが理想との狭間に苦しむ。」

「良き人、ヒーローとは、」

「ありのままの自分を受け入れること。」

「伝えたいことが、」

「言わなくていいわ。」

「自分の未来を心配なさい。」

「あなたが望む自分になりなさい。」

ソーは「インフィニティ・ウォー」でのサノスとの敗北以来うつ病になり、引きこもり、酒浸りの日々を送っていました。

それが母の言葉を聞いて自分を取り戻し、かつての武器、ムジョルニアを手につかむと、

「俺はまだやれる。」

と自分を取り戻します。

ムジョルニアを取り戻したソーはまさに最強の存在になりますが、王座に対する義務感や執着はその頃には全く消え失せて、そして新しいアスガルドの国王の座はヴァルキリーが譲り受けることになります。

4.デシメーションを生き残った者:トニー・スタークとスティーブ・ロジャース

トニー・スタークが1970年まで戻り、スペース・ストーンを無事回収した際、自分の父ハワード・スタークに自分の姿を見られてしまいます。

トニーはハワードに呼び止められます。

「おい、ドアはこっちだぞ。」

「ゾラ博士を見たか?」

「君、どこかで?」

「いいえ。」

「名前は?」

「ハワード・ポッツです。」

「顔色が悪いぞ。」

「風に当たるかね。」

2人はエレベーターに乗り、 そしてハワードは妻が妊娠中だと明かします。

「何ヶ月?」

「さてな。」

「横で食事して嘔吐く頃だ。」

「私はまだキッチンで食事だな。」

「名前はもう?」

「妻は男の子ならエルモンゾと。」

「子供のためならどんなことでもしたい。」

ハワードはトニーと別れて車に乗り、そして運転手に、

「前に会っただろうか。」

「他人とは思えなかった。」

と言います。

しかしトニーの胸は、実の父に再会できた喜びでいっぱいになり、父への感謝の気持と、更に改めて自分こそが、失われた世界を救う使命があるのだと決意を新たにするのです。

またスティーブ・ロジャースのかつて思いを寄せていたペギー・カーターの姿を見つけますが、こちらは声をかけることなくその場は終わります。

映画の最後に、再度スティーブはタイムスリップで過去に戻り、おそらくはペギーに再会したのでしょう。

「自分の人生を生きてきたよ。」

「どうだった。」

「素晴らしかったよ。」

「ペギーとは?」

「それは胸にしまっておこう。」

ティーブは過去に戻ってストーンを戻した後、すぐに現在に戻ることなく、過去の時代にとどまる選択肢を選びました。

それはまさに彼が過去への対峙を選んだということであり、それが彼の心にとっては誠実な生き様であったということなのでしょう。

それまでは戦うことが彼の人生のすべてでありましたが、それが自分にとってすべてであるとは思えないという意思と、過去の良き時代に対する憧憬も残っており、それも自分の心の中で決着をつけたいという思いだったのでしょう。

そしてその思いが達成されたスティーブは心から晴れがましい表情をしていました。

自分は自分の人生をやりきったのだと...

5.最後にもう1つだけ余談を:「アベンジャーズ/エンドゲーム」で「タイム泥棒」から帰還したメンバーのうち、たった1人だけ元の自分と違った人物とは?

「タイム泥棒」作戦は無事成功し、すべてのストーンを回収し、ナターシャ以外の全身が原題に戻ることができ、いかにも万々歳のように見えました。

何もなければこれで事件終結

実際には全然そうではなかったのですが。

「アベンジャーズ/エンドゲーム」で「タイム泥棒」から帰還した9名のメンバーのうち、たった1人だけ元の自分と違った人物とは誰か?

これが新たな波乱を巻き起こし、その先のアベンジャーズ総結集の「アベンジャーズ・アッセンブル」による大決戦へ物語を導いていきます。

元の自分と違った人物とは、一番それが目立ちづらい人物です。

それが大きなトラブルになるとは、まさかおもいもよらない人物。

なにしろサノスによって、殺し屋としてサイボーグ化された人物なので顔だけ見たら、全然過去の自分とすり替わっててもわからないですよね。

このように見るたびに、いろんな視点から様々な見方ができる「アベンジャーズ/エンドゲーム」、よろしかったら是非見て頂きたいと思います。

上映時間3時間(181分)はさすがに長いですが、ここまで物語が膨らんでしまったものはもうどうしようもありません。

是非お時間のある時に、休日のお暇な時にでも、と思います。

それでは今回の記事はこれで終わりです。

最後まで読んで頂いてどうもありがとうございました。

 

 

映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」でトニー・スターク(アイアンマン)扮するロバート・ダウニー・Jrが演じてみせた秀逸な二律背反について

 

1.映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」でトニー・スターク(アイアンマン)扮するロバート・ダウニー・Jrが演じてみせた秀逸な二律背反について

ロバート・ダウニー・Jrが、映画「アベンジャーズ/エンドゲーム」で演じてみせたトニー・スターク(アイアンマン)としての演技の奥深さは「自信のあるヒーロー」を演じてみせたからではないでしょう。

むしろそれは「自信家でないヒーロー」そのものでしょう。

これはいわゆる二律背反にあたる。

ヒーローというものは本来自信家であらなければならないからです。

アベンジャーズ/エンドゲーム」のトニー・スタークは、もう敵に勝てるという絶対的な自信に満ち溢れてはいません。

今度の戦いでは自分は負けるのではないか?

自分は死ぬのではないか?

そう思いながらも戦いに巻き込まれていく。

そういったヒーローを演じています。

これはロバート・ダウニー・Jrがトニー・スタークという人間を独自解釈してできあがったキャラクターであり...

もしロバート・ダウニー・Jr以外の俳優がトニー・スタークを演じていたならば...

おそらく全く違ったキャラクターができあがったに違いない...

そういう気がします。

これは監督や脚本家によって作られたものかというと、おそらく違うと思うのです。

ロバート・ダウニー・Jrが脚本をじっくり読んで 、自らの演技とキャラクターを練り上げた結果できあがったもの...

これが最終的に映画に反映されています。

脚本家と俳優というものは、一方的に脚本家から俳優に指示がいく、というものではなく、双方的に形作られていくものでしょう。

そして結果として反映されたロバート・ダウニー・Jrの演技に誰もが納得させられた...

そういうことではないでしょうか?

それではトニー・スターク以外の他のキャラクターと比較してみましょう。

2.トニー・スターク(アイアンマン)のキャラクターとスティーブ・ロジャース、ピーター・パーカー等との違いと比較

トニー・スタークのキャラクターはスティーブ・ロジャースキャプテン・アメリカ)やピーター・パーカー (スパイダーマン)のそれとは全く異なるものです。

彼らは正義感あふれるヒーロー。

ピーター・パーカー演じるトム・ホランドは、若くて好奇心溢れるヒーロー。

スティーブ・ロジャース演じるクリス・エヴァンス大義を重んじるヒーローで、目的のためには重責も厭いません。

しかしトニー・スタークはそういうキャラでない方が映画としての深みが増します。

トニー・スタークはエゴイスト。

自信家であるように見えますが、それは表面的なもので、むしろエゴイストであるが故にそのように見せているのだと言えます。

ソーも見かけは豪快で自由奔放なエゴイストのようにも見えますが、同時に人情家でもあり、その情念の強さはトニー・スタークほどではありません。

トニー・スタークの内面はさほどヒューマニズムに溢れているわけでもなく、ガッツとバイタリティに満ちあふれてはいますが、模範的人格者というわけではなく、時には独りよがりな態度を見せたりします。

彼の言動はやがて敵を作り、またいろんな波乱に自分自身を巻き込んでいきます。

それに対し、彼は自身の正義感を持って戦うのですが...

しかしそもそもそういう運命に自分を引き込んでいるのは、自分自身の過去の言動なのです。

ただ誠実に慎ましく過ごしているだけだったならば、別に波風も立ちません。

スターク社の2代目で自らも天才的な発明家かつ大富豪...

その内面にあるエゴイズムが表面に出れば出るほど、その奥にある繊細さや弱さも浮き彫りになる。

本来能力というものは、あからさまに、これみよがしに曝け出すべきものではありません。

ほとんどの社長や経営者は、自分を出しすぎず、世間的には自分を曝け出しすぎないようにして生活しています。

その方が自分の生活が安定し、また他人からも批判されづらいからです。

その方が賢い生き方です。

これはどの国でもいっしょです。

3.「私はアイアンマンだ。」の真の意味と、それをロバート・ダウニー・Jrがあのように演じた必然性とは何か?

「I am Iron Man.」

私はアイアンマンだ。

この言葉ほど二律背反に満ちている言葉はありません。

一見この言葉はヒーローを指しているように見えます。

しかし実際には自分はヒーローではないことを自覚しているからです。

エゴとヒロイズムは紙一重です。

とても危険なものです。

むしろ関わらない方が良いです。

しかし人間心理の奥を逆手に読むと...

それこそが人間の心を強く捕らえてしまうこと。

この思いに人々は翻弄されてしまうこと。

そしてそれはいつか終わりを迎えなければいけないものです。

この映画においては主人公の死。

つまりトニー・スタークの死です。

アメコミ映画や娯楽映画、SF映画のように見せかけながらも、実は優れたヒューマン・ドラマに転化している...

これはロバート・ダウニー・Jrだったからこそできた俳優職人としての技で...

逆に言えば彼はこういうふうにしかトニー・スタークを演じることができなかった...

もしこの演技を監督や脚本家から、真っ向から否定されていたとしたら...

そもそも「アイアンマン」の1作目は作られなかったかもしれない...

あるいは全く別のものになっていたかもしれない...

10年以上かかったこの壮大な物語も、また違ったものになっていたかもしれません。

もちろんロバート・ダウニー・Jrの演技が、それだけ説得力のあるものであったからこそ、この物語はこのような素晴らしい感動的な終わりを迎えることができたのでしょうが。

いずれにせよ、これは自分のオピニオンでしかありません。

私にはただ語り、文章を紡ぐことしかできません。

今回の記事はこれで終わりです。

それでは最後まで読んで頂いてどうもありがとうございました。